預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

3.11の記憶(The End)

9年前の今日、午後2時46分。
福島県いわき市の自宅、その2階の小さな書斎でいつものように仕事をしていた。
平穏な日々のはずだった。


その数日前に前触れはあった。
だが、いつもの小さなもの、それだけで終わる、大したことにはならない、と思っていた。慣れっこになっていたとも言える。
しかし、3.11
揺れ始めて数秒で「これはやばい」と感じた。


実は、阪神大震災の日、仕事でたまたま大阪にいて、あの大地震を経験していた。
その2年前か、北海道奥尻島の大地震(日本海側の地震としては過去最大級らしい)の日も仕事でたまたま札幌にいて、あの大惨事の渦中にいた。
それらの経験が活きたのか、野生の(?)勘か、とにかく、机の下に……とか言ってる場合じゃない、と直感して、部屋を飛び出し、階段を駆け下り、階下にいた子供達に「外へ出ろー!」と叫び、ともに家の外に飛び出した。


阪神大震災の時は、突然の下からの強い衝撃で、勿論恐怖を感じたものの、10秒前後で揺れはおさまった。
そう、地震は、そんなに長く続くものではない。
と思っていた。
なのに、止まらない。続く。いつまでも。
いつまで?
これは地震ではないのか?
地震なら何故、いつまでも揺れてるんだ?
なんだ、これは?
なんだ、なんなんだ、
なんなんだ、これはーっ!


立っていられなくなって、道路にへばり込みながら、叫んだ。
隣の家のガレージのバイクが倒れた。
自動車も、サイドブレーキを引いてなかったのか、ガクン、ガクンと前後に大きく揺れて、今にもこっちに突っ込んできそうだった。
周りの建物が自分に向かって倒れてくるような恐怖を感じた。
コンクリートの電柱が、あまりの横揺れで、ぐにゃぐにゃとたわんで見える。


思い出したら、書こうと思ったらいくらでも書けるが、きりがない。
その後も頻繁に続く余震。
余震の「余」は、余りという字だが、決して、少し残ってるというような軽いものではなく、本震と同じクラスの揺れがひっきりなしにやって来たから参った。


余震を恐れて家の中に入らず、外にいると雪。
仕方なく家に入るが、中はめちゃくちゃ。
その夜は、いつでも外に出れるようにと、服を着たまま、一睡もせず、朝まで過ごした。


惨憺たる気持ちで迎えた誕生日の朝。
記念すべき50歳の朝。
喜びも何もない、最悪の日。


その日、追い打ちをかけるように、原発が爆発した。
もう死ぬんだな、と思った。


東日本壊滅が免れたのは、奇跡だ。
時の総理、菅直人氏も、クリスチャンではないのに、そう言っている。


あのとき、間違いなく日本は死にかけていた。
だからまた、今度も奇跡が起きて助かるなどと思ってはいけない。
今度は、
終わる。
The end.

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