預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

礼拝は、守ってはいけない(ローマ12:1~2)

 神は憐れみ深いお方である。それゆえに『あなたがたにお願いします』とパウロは私達に、霊的な礼拝を捧げるようにと言う。それが何故、命令ではなく、お願いなのか。それは、もし礼拝が規則なら、それは嫌でも「守る」ものとなってしまうからだ。本当は嫌だけど規則だから守る……そこに神への愛はない。なおさらのこと、「日曜礼拝厳守」という首輪をはめられるようなら、どこに自由、喜び、感謝があるだろうか。礼拝は、あくまでも自発的な礼拝でなければ、真の礼拝とはなりえないのである。


 真の礼拝、それは、生活全体、いや人生、その存在を通して神の栄光を現すことである。そのために『この世と調子を合せてはいけません』と続けて聖書は言う。何故なら、この世は「自己中心」だからである。それはアダムとエバの時から始まっている。 彼らは罪を犯した時、互いに人のせいにし、責任逃れをした。その罪の性質が「この世」の根底にある。ゆえに、この世と調子を合せてはいけない、と聖書は言う。いやむしろ、神の御心は何か、を知るように、と勧める。それを、わきまえ知るために『心の一新によって自分を変えなさい』と。


 この『心』は、ノウスというギリシャ語で、思考、理性、思いなどを指す。要は「考え方」と理解すればいいだろう。
 人間の考え方は、人それぞれ、十人十色、様々である。しかし、全ての人の考え方の土台となっているものがある。残念ながら、それがアダム以来の「自己中心」である。


 私達は、自己中心にではなく、神中心に(神の御心を)考えるべきであり、御言葉を基準に物事を判断する思考回路へとノウス(考え方)を一新することが必要である。そのような聖書の教えに抵抗する「自己中心」の考えを一新しよう。そうすれば、『神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかを』わきまえ知ることができるようになる。

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