預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇118(偽りのイスラエル)

 「エジプトのハレルヤ詩篇」の最後の詩だ。バビロン捕囚後の神殿再建にまつわる詩とされているが、恣意的・作為的な読み方は避け、御言葉の真理によって生きる力を受け取って行きたい。


 前提として、バビロン捕囚は、イスラエルの不信仰に対する神の裁きである。しかし、滅ぼされはしなかった(18節)。懲らしめられて悔い改めたから解放されたのだ。それこそが「第二の出エジプト」とされる所以であり、「キリストによる救いと解放」のシルエットである。


 さて、解放後イスラエルは新しい神殿に入る(19~20節)わけだが、それを通してこの詩は何を訴えようというのか。


 まず、22~24節は、キリストのことだとⅠペテロ2:7~8で解き明かされている。つまり、捨てられた石が礎となったというのは、キリストの十字架のことなのである。
 続く25~26節は、主のエルサレム入城(すなわち、十字架への道)の預言だ。要は、この詩は「メシア詩篇」だということだ。ゆえに「正しい者たちが入る、主の門」(20節)とは、単にイスラエルの新しい神殿のことではなく、主を信じる者が入る永遠の神殿・神の国・天の御国のことであり、まさに「義の門」(20節)なのだ。その門は、神を信頼する者のために開くのであり、イスラエルに与えられた新しい神殿は、そのモデルに過ぎない。それは主御自身が、この詩を引用して語っておられる。「神の国に入るのは、真のイスラエル(神に信頼する者)であって、肉のイスラエルではない」と(マタイ21:42~43)。


 イスラエルは主の入城の際「ああ主よ救ってください(ホサナ)」と叫んだが、すぐに主を見捨てた。自分達の願い通りに主が(革命を)行なわないからだ。主のなさることへの信頼が無い(神に信頼する者ではなかった)のだ。彼らから神の国は取り去られると主は言われた。


 私達は、いつも平和であることを願う。しかし、その願いに反して今年もし、世の終わり(裁きのとき)が来ても、主のなさることに信頼して、「ホサナ」と主を歓迎する者でありたい。その様な、真のイスラエルであり続けよう。

詩篇117(詩篇でクリスマス)

 キリストの降誕は、決して煌びやかなものではなく、むしろ厳しい。それは馬小屋で産まれた主御自身にとってだけでなく新生児を、産湯さえ無いような環境で飼い葉桶に寝かせるしかなかったヨセフとマリヤにとってもである。
 普通に考えれば、修羅場だそんなキリストの誕生を喜べるのは、信仰があればこそなのである。


 さて、ここで詩篇は「全ての国々よ、全ての民よ、主をほめよ」と命じる。何故なら「主の恵みは私達に大きい」からだと言うのだが、何か、おかしい。
 主の恵みを受けたのは「私達」と言っているのだから、その「私達」(詩篇が書かれた時点において「私達」とはイスラエル)が主をほめればいいのではないだろうか。それを何故、他国の人々(異邦人)にまで強要するのか。


 勿論、異邦人も被造物であるのだから造り主を崇めるべきと言えば、そうであるが、しかし、崇めるということは、信仰を以てであるわけで、すると、「全ての国々よ、全ての民よ、主をほめよ」との命令は、ともすれば、全ての国民が救われるという「万人救済説」に陥るのではないか。


 確かに、全ての人が救われるというのは理想的ではある。ゆえに伝道はすれども、他の信仰を持つ人に無理強いして押し付ける(十字軍のような)のは良くない。


 それでも「全ての民よ主をほめよ」と言うには根拠がある。それは「キリストの降誕」だ。イスラエルになされた「神の大きな恵み」(旧約の奇跡の数々)は、全て「救いの計画の一部」であり、その計画を完成させる為にキリストはこの世に来られた。そして今も、信じるなら誰でも救われる。「主の真はとこしえに至る」と、この詩が言う通りだ。


 だから、イスラエルになされた奇跡・恵みは、イスラエルが主をほめればいい。しかし、それらの恵みは、異邦人も救われる為の神の計画なのだ目指すは異邦人も救われることその素晴らしさのゆえに「全ての民よ主をほめよ」なのである。
 つまり、この詩はローマ15:8~11に証しされているように「クリスマスの預言」だったのである。そして続く12節で引用されている通り、イザヤの預言(キリストが生まれる)は「異邦人がこの方に望みをかける」ためなのだ。


 キリストを信じるなら誰でも救われる。この「主の真はとこしえに至る」。その素晴らしさをほめたたえよう。

詩篇116(え? 誓いますよ??)

 ギクシャクした詩だと感じる。例えば1節。主を愛する理由は「主が願いを聞いて下さるから」だと。それなら、祈りが聞かれなかったら即刻離婚、偶像に行くということなのか


 更に10~11節。「私は信じた」と。その直後に慌てて「全ての人は偽りを言う者だ」と言った。すると「信じた」は虚言で、それを取り消してるということなのか。
 いや、そんなはずはない。他の訳の聖書と照らし合わせると「私は信じる…人は嘘つきだ、と思えるときも」という意味だと分かる。1節も、新共同訳では「から」は無い。「主は…聞いて下さる」だ。とにかく、神は信頼されるべきお方だ。「主は情け深く、正しい」(5節)。


 そこで詩人は言う。「私の魂よ。お前の全き憩いに戻れ」(7節)と。「全き憩い」とは何か。何の心配も無いことか。いや、「魂よ。お前の」と言われている通り「魂にとっての完全なる憩いに戻れ」と言っているのだ。すなわち神に信頼して、神と共に生きる」という本来あるべき元の形に戻れということだ。そこから離れていたからだ。それゆえにイスラエルは、バビロン捕囚という懲らしめを受けた。だから「神に信頼して神と共に生きる者の姿に戻れ」、そうすれば主は報いて下さる、と言うのである。


 それゆえに詩人は、イスラエルを代表するかのように「私は、自分の誓いを果たそう」(14節)と言う。それも二度(18節)も。誓ってはならないどころか、主の民は、自分の誓いを果たすべきなのだ。それが主の良くして下さったことに対する「お返し」(12節)なのである。


 クリスチャンは、神の民として生きようとする、その初めの時に洗礼式という誓いを立てている。「これからは主にだけ従います。主と共に生きて行きます」と。それは「正しい良心の、神への誓い」だとⅠペテロ3:21に教えられている。
 その誓いも禁止だと言うのだろうか。いや、尊ばれるべき誓いだその誓いは断固として果たされるべきなのだ。決して破棄してはいけない。それこそが「魂の全き憩い」を得、救いの完成に至る道なのだから。


 この御言葉の約束に基づく信頼を神に寄せよう。そうすれば主は報いて下さる。

詩篇115(彼らとは誰ら)

詩篇本文は、ご自分の聖書にてご確認ください


 一見、信仰的な詩のように思える。が、何か違和感がある。


 まず1節は、イスラエルの謙遜から出た言葉なのではなく、詩人による(イスラエルが律法主義をやめますようにという)執り成しの祈りだ。
 律法主義は、自分の力で自分を救おうとするその点で偶像崇拝=自分の作った神が自分を救う=と同じすなわち真の神を信頼していないのであり、2節でそれを指摘している)わけで、言わば、栄光を自分のものとすることである。だから2~8節は、偶像崇拝者への非難でありつつ、同時にイスラエルの律法主義への批判なのである。


 ゆえに「主に信頼せよ」と訴えるのが9~11節だが、問題は「彼ら」だ。主が「イスラエルの助け」であるなら「我ら」とすべきだろうに。


 順を追おう。12節は、バビロン捕囚からの解放であり、主の助けだ。しかし、そもそもバビロン捕囚は、神に信頼しない故の裁きであって、それをきっかけにイスラエル離散が始まり、やがて国を失い、遂にはローマに支配され、約束の救い主を拒むのである。それをパウロは「不信仰の故に折られた」と言っている。だから14~15節は祝福ではなく、国を失い離散するイスラエルへの憐れみなのだ。


 結局「彼ら」とはイスラエルではない。むしろイスラエルに対して「彼らのようになれ」と言っている、それが9~10節だ。主は「彼ら神に信頼する者達」の助け・盾であると。つまり、イスラエルは信仰的でもなく謙遜でもない、と指摘するこの詩から受け取るべきメッセージ、それは、イスラエルの様であってはいけないということだ。


 地上の人生は神の賜物・恵みだ(16節)。が、神を信頼せず滅ぶなら恵みは無駄となる。だから、命ある内に神への信頼を確かにする必要がある、と言うのが17節。そして「私達こそ、主をたたえよう」と18節。神に信頼する者だからこそ、主をたたえるべきなのだ。


 神に信頼しない(自分で自分を救える)、それが律法主義であり、偶像崇拝だ。それは栄光を自分のものとすることである。
 しかし、栄光は主のもの、救いは主から来る。たとえ何が起きても、主に信頼する者は救われる。だから、主に信頼して、主を崇めて、とこしえまで主と共に生きる者となろう。

詩篇114(脱出!)

 出エジプトという「救いの青写真」(それは、第二の出エジプトである「バビロン捕囚からの解放」を経て、第三の出エジプト「キリストによる救い」へと昇華する)を通して語られる詩なのであり、言わばクリスチャンにとっての「ハレルヤ詩篇」である。


 事実、クリスチャンは、出エジプトと同じように、この世から脱出し(使徒2:40参照)、聖霊の宮(神の住まい=聖所)となった。それを、この詩(1~2節)は語っている。


 しかしながら、確かにイスラエルは「エジプト」という異なる言葉の民から脱出したが、日本のクリスチャンは大抵は日本で救われて日本に居る。元々、同じ言葉の民の中に居たし、救われてからもそれは変わらないはずだ。その点は、出エジプトとは一致しないのだが、どう理解すればいいのだろう。


 実は、クリスチャンは例外なく「異なる言葉の民の中から」脱出したのである。それは「異なる価値観に基づく言葉を語る人々の中から」という意味だ。それは全然違う言葉なのだ。まるで異言であるかのように、話が通じないのである。そんな経験はないだろうか。


 大切なのは、私達は、そこから出たのだから、いつまでもこの世の法則に従った考え方をしてはいけないということだ。利得を求めるとか、数の力を求めるとか、そういうものを信仰の世界に持ち込むべきではない。
 聖書は「古い人を脱ぎ去れ」「心の一新によって自分を変えなさい」と言う(ローマ12:2)。そして「何が神に喜ばれるかを見分けなさい」(エペソ5:10)と。それが「光の子らしい生き方」なのだ。そうすることによって私達は「神の聖所」となる。それが、この世から脱出した光の子の生き方だ。


 古いもの(富・名声…)は真の命を守る為には何の役にも立たない。全ては過ぎ去る。しかし主は、砂漠で水を与え、人に命の水を与えて下さる。それを飲む者は生きる。川が逆流するように、全ては益に変わる。
 その為に私達は、この世の中に生きながらも、脱出し続けるのだ。古い価値観と考え方、偽りの教えから。そのようにして神の聖所である私達の魂を聖めよう。聖所に、神の国のものでないものが混じっていてはいけないのである。