詩篇のブログ記事
詩篇(ムラゴンブログ全体)-
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ここには「御子」と「娘」の婚礼の様子が描かれているが、それは霊的には、キリストと教会の事である。そして、それは恋愛に基づく結婚ではなく、一心同体となる事を意味している(エペソ5:22~31)。 夫婦は一心同体。果たしてそれは本当か。「夫は妻を自分の体のように愛せ」と聖書が教えるのは、「現実は... 続きをみる
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『平和の人には子孫ができる』と言うが、ある人はこの言葉に違和感を覚え、ある人(例えば、不妊で悩む人)は躓くかもしれない。これは翻訳の問題である。『子孫ができる』は直訳は『未来がある』であって、新共同訳では、ちゃんとそう訳されているのに、不思議だ。 さて、この37篇は「この世にあって悪は栄える」... 続きをみる
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正しい者は知恵を語る、と詩篇は更に言う。知恵と言えば、箴言だ(知恵についての教えが99回も出て来る)が、その中でも注目すべきは『主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである』(箴 9:10)だ。真の神がおられると知る(そして従う)こと、それが「知恵の初め」だと言うのである。口語訳で... 続きをみる
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「人の歩みが確かにされる」とは、人生が安定する、ということだろうか。いや、続く24節では『その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない』とある。その人は倒れない、とは言っていない。倒れても致命傷にはならないだけで、普通に倒れることもあるということだ。それを「安定」とは言えない。そもそも、世にあっ... 続きをみる
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心にあることを口が話す、と主は言われた。例えば、「お世辞を言ってやろう」という思いが心にあるから、口からお世辞が出るのである。心にも無いことは口から出ないのだ。ゆえに、心に何を満たすかが重要である。もし、聖霊に逆らうことを言うなら、それは、神を恐れる思いが心に無いからである。ゆえに、その言葉によ... 続きをみる
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前回の「神の慈愛(救いの完成)を待ち望もう」の続きである。それを待ち望むのは、私達の「心」ではなく「魂」だと言うのだが、どういうことだろう。心では「宗教なんか要らない」と思う人もいるかもしれない。頭では「天国なんか無い」とも考えるかもしれない。しかし、魂は救いを求める、それが人間だということだ。... 続きをみる
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「主を恐れる者」とは、この世の財力、数の力などに拠り頼まず、神にのみ拠り頼む者である。しかし、全部、神任せでいいという訳ではない。自分の果たすべき責任もあるし、パウロも、自分には人一倍、人間的なものに頼るところがある(エリートのパリサイ人で、その熱心さが自分の頼る力だ)と言っている。ただし、キリ... 続きをみる
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神は人の心を調べる。神は全知であり、何も神の前に隠すことは出来ないはずなのに、『地に住むすべての者に目を注がれる』のだという。一人残らず、その『わざのすべてを読み取る』と。そこまでして何を調べようというのか。それは、人がその心にどんな計画を持っているか、だ。何故なら、10~11節に言われていたよ... 続きをみる
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主の受難を預言した「十字架の詩篇」である。その預言の通り、主は十字架の上で『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれた。本当なら、罪ある人間である私達が神から見捨てられるべきなのに、御子が代わりに見捨てられて下さった。信じる者の罪を赦すためだ。その為に(見捨てられて死ぬ... 続きをみる
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